使えない資格の勉強をすることはムダ?それを決められるのは自分だけ

社労士試験

Twitterでたまに目にする「使えない資格の勉強をするなんてムダ」

こんにちは。

社労士試験4回目にしてやっと合格でき、今は労務ワーカーとして働いている11ぴきのぺんぎんです。

たまにTwitterを見ていると、社労士の勉強をしている人が、第三者から

「使えない資格をとるために時間をかけるなんてムダ」

「それで稼ぐわけでもないのに、そこに時間とお金をかけるなんてムダ」

といわれてしまった…というツイートをみかけることがあります。

私はこうしてブログをやっておきながら、リアルの生活では本当に近しい人にしか社労士を合格したことを伝えていません。

なので、実際にこのようなことを言われたことはありませんが、それでも定期的にこのようなツイートを見る機会があります。

社労士という資格が使えるか、使えないかという話は、今回は置いておいて、「資格を勉強することは、その資格を使わなければムダなのか」ということについて、書いてみたいと思います。

(個人的には社労士という資格が使えない資格とは全く思っていません!!

特にここ最近の労働関係の流れをみていると、大きく追い風なのではないかと勝手に感じています)

それは正解でもあり不正解でもある

「使えない資格の勉強をすることはムダである」

ということについては、正解であり、不正解だと私は思っています。

なんだそれ!!( ゚Д゚)ってかんじですよね。

でも、なぜそう思うのか。

なぜなら、その時間や費用をムダであったかどうかを決めることができるのは、勉強をしてきた本人、ただ一人だけだからです。

だって、第三者は、勉強をすることで得た経験も、そこで得た知識も、それと引き換えに失った時間も、費用もなにもかも、知らないからです。

だから、勉強をした本人が、「ムダ」だと思えば、それはムダとなるし、例えそれが、実務や収入に結びつかなくとも、本人にとってムダでない経験だったしたら、それが第三者にとってムダだったとしても、それはムダではないと、私は思います。

収入につながることだけが資格の勉強をする価値なのか

例えば、社労士試験を受験して、合格したとしても、労務の仕事に就かなかったり、社労士事務所に転職しなかったり、開業しなかったりしたとしたら、社労士試験に費やした時間はムダだったのでしょうか。

もちろん、せっかく時間と費用をかけて資格をとったならば、その資格を有効利用して、収入面等においてステップアップすることができれば、なおよいと思います。

でも、資格の勉強をするということは、果たしてそれだけが価値なのでしょうか。

大人になってから資格の勉強をするということは、なかなか一筋縄ではいかないことが多いです。

仕事、家事、子育て、介護、いろんなものの中で、なんとか時間を捻出して、自分の目標に向かって進んでいく必要があります。

私は、大人になってから、こんなにしんどい思いをして、必死に目標に向かうということは、社労士試験以外になかったように感じます。

でも、真剣に挑戦したからこそ、不合格のときは本当に絶望したし、合格できたときは涙がでるほど嬉しかったです。

また、合格するまでには、たくさんの時間、弱い自分と向き合い、試行錯誤を繰り返していく必要があります。

その経験は、これからの自分を強くするものだと思うのです。

そして、その苦労がわかるからこそ、同じような苦労を続けてきた合格者のみなさんとわかりあえるし、今現在必死で受験しているみなさんのことを応援したくなります。

このような想いやつながりも、「収入につながらないから」という理由だけで、ムダとなってしまうとは、私は思いません。

価値は本人にしか決められない。だからこそ、自分で決める

今まで話してきたように、資格試験の勉強を続けることの「価値」を決められるのは、ほかでもない勉強している本人だけです。

だからこそ、自分の心で、勉強を続けると決める。

その必要があると、私は思います。

そうでないと、もし不合格だったときに、今まで費やしてきた時間や費用をムダと感じ、誰かのせいにしていまいたくなってしまうかもしれません。

でも、自分で進むと決めたのであれば、きっとその過程は、その時はとてもつらくても、自分にとって価値のある時間になると思うのです。

何者かになりたい人も、日常をただ愛する人もどちらも尊い

ここ最近では、SNSのインフルエンサーという方たちもたくさんいて、「何者かになる」ことを強く目標とする人もいれば、逆に何物にもならなくとも、日常を愛せればいいということに価値を見出す人もいます。

どちらも両極ではありますが、私は、資格の勉強をしている人は、この、ちょうど間のような気がしています。

日常を愛するために、「何者かになりたい」。

こういう考えがあってもいいのではないかと私は思います。

何者かになりたい人、そして日常を愛し現状を大切にする人、そのどちらも否定することはないと思うし、比べる必要もありません。

ただ、「何者かになりたい」、そしてそれが「誰か、何か」のためであれば、その姿はとても尊いと私は思います。

私は、このブログを書くことで、11ぴきのぺんぎんという「何者か」を、読んで下さるみなさんが作ってくれている気がします。

特別な才能も、ステータスもない、ただの人である私を、「何者か」にしてくれる人がいる。

きっとそれは、私に限ったことではなく、みなさんの日常の中にも起こりえることだと思います。

誰かのために「何者か」になろうと努力を続けていれば、自然と誰かがその価値に気づいてくれて、自分では見つけられなかった「何者か」にしてくれることもあるのかもしれません。

人生は、自分次第で何度でも書き直せると思いたい

今回、この記事を書くきっかけになったのには、ある歌があります。

私は、この年末から年始にかけて、

「LiSAさんの炎」→「King Gnuの三文小説」→「竈門炭治郎のうた」この3曲をループしてずっと聞いていました。

その中で、King Gnuの三文小説という曲の中で、毎回心が震える歌詞があります。

それが、こちらです。

僕らの人生が 三文小説だとしても 投げ売る気は無いね 何度でも書き直すよ

King Gnu 三文小説 より
King Gnu – 三文小説

なぜ、この歌詞で心が震えるか。

それは、例え自分以外の誰かが、自分のやっていることを「三文小説」だと言ったとしても、決して渡してやらない。

そして、例え今が三文小説だったとしても、それを書き換えることができるのも、自分だけ。

そう思えるからです。

自分の人生を、三文小説ととらえるか、それはあくまで自分だけが決めることです。

そして、何度でも書き直せる。

よく未来は変えられるといいますが、未来が変わっていけば、過去のとらえ方も変わることもあります。

なので、もし今がダメだったとしても、その先もダメかどうかは、誰にもわからないのです。

自分ってなんてダメなんだろう、このままでいいのかと思うときもありますが、それも自分にしか味わえない人生であり、ダメだったら何度でも書き直せばいい。

そう思いながら、ぼちぼち進んでいきたいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました(^^)

まとめ

  • 資格の勉強に費やした時間、費用をムダとするかを決めれるのは本人だけ
  • 価値=収入を増やすことだけではないのでは
  • 自分にしか決めれないからこそ、自分の心で決める必要がある
  • 自分の人生の価値は自分にしか決められいない
  • 今がダメでも、自分次第で何度でも書き直せる

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